【PRおじさんのぼやき】昭和の日に考える、戦争と平和──いま改めて問われる日本のあり方
- 橘川 徳夫
- 37 分前
- 読了時間: 4分
ブログを始めて、気づけば1年が経ちました。これまで主にPRに関する考えを「PRコラム」として発信してきましたが、これからは少し枠を広げて、「PRおじさんのぼやき」という新たなコーナーも始めることにしました。
「ぼやき」といっても、ただの愚痴ではありません。60歳を迎えた一人の“おじさん”として、日々感じること、社会を見つめて考えたことを、肩の力を抜いて綴っていきたいと思っています。
その第1回目となる今回は、少し重いテーマですが、「戦争と平和」について書いてみました。
今日4月29日は「昭和の日」。もともとは昭和天皇のお誕生日であり、今では昭和という時代を振り返る日とされています。昭和天皇は、戦争の苦しみや平和の大切さに深く向き合い、戦後は平和の実現に向けた姿勢を国民に示され、その思いを受けた上皇様、現在の天皇陛下まで平和への思いは受け継がれています。
戦争の悲劇から立ち上がり、復興と高度経済成長を経て歩んできた昭和の時代。その歩みを振り返ることで、私たちがどのように平和を築いてきたのか、あらためて考える機会になるのではないでしょうか。
そんな思いを込めて、今日は「戦争と平和」という重たいテーマについて少し考えてみたいと思います。
トランプ大統領は、日本に対して「もっと自国の防衛に責任を持つべきだ」と主張しています。アメリカに安全保障を依存してきた日本にとっては耳の痛い話ですが、同盟国として一定の理解もできる意見かもしれません。
ただし、日本が軍事力を持たないことを定めたのは、憲法の理念によるものであり、その憲法は戦後、アメリカの主導で制定されたものです。つまり、日本が「戦力を持たない国」である背景には、アメリカとの深い関係があります。
戦後80年近くが経過し、日本は「平和国家」として国際社会から一定の信頼を得てきました。憲法第9条に象徴される「平和主義」の精神は国民全体に根付いており、憲法改正についての議論はあるにせよ、この精神を守り続けてきたことは、世界に誇るべき姿勢だと思います。
しかし、近年の国際情勢を見ると、平和が当然であるという前提が、必ずしも通用しない時代になってきたことを感じます。ロシアによるウクライナ侵攻や、緊張が高まる台湾情勢、北朝鮮のミサイル開発、中国の軍拡など、東アジアを取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。
もしも日本が、何の備えもないまま有事に直面することになれば、ウクライナのように多くの犠牲を払うことになるかもしれません。自国の平和を守るためには、相応の防衛力を持ち、万が一の際に備えておくことも必要ではないかと感じています。
また、戦後の国際秩序そのものも、見直しの時期に来ているのではないでしょうか。たとえば国連の安全保障理事会の常任理事国は、いまだに第二次世界大戦の戦勝国で構成されており、日本やドイツのように国際社会に大きく貢献してきた国々は、重要な決定に十分な影響力を持てていません。拒否権の問題も含め、国連のあり方そのものが時代に合っていないと感じます。
アメリカが同盟国に「相応の役割」を求めるのであれば、国際社会の制度もまた、時代に即して見直されるべきではないでしょうか。昭和という時代を経て、私たちは戦争の悲惨さと平和の尊さを学びました。確かに武力をもって平和を維持するという日本国憲法の理念とはかけ離れているかもしれません。
しかし、戦後80年が過ぎ、国際社会は大きく変化しています。日本は、世界に例を見ない高度経済成長を遂げ、さらに唯一の被爆国としての歴史も背負っています。 武力によらず、戦争を手段とせずに平和を守ることは、日本が世界に向けて発信すべき国際的な使命です。 そして、令和の時代を生きる私たちには、現実を直視し、平和を守るために本当に必要なことは何かを考える責任があると思います。
と、60歳のおじさんは、昭和の日にちょっと真面目に考えてみました。
世界の平和も大事ですが、まずは自分の健康と家庭の平和から――なんて、ちょっと小さな目標も掲げつつ、これからも「ぼやき」続けたいと思います。
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