【PRおじさんのぼやき】『墓じまいラプソディ』を読んで思う―国会の古い社会観
- 徳夫 橘川
- 9月26日
- 読了時間: 3分
先日、垣谷美雨さんの小説『墓じまいラプソディ』を読みました。垣谷さんは、女性の生きづらさや人生の選択をテーマに描く社会派エンタメ小説で知られています。今回の作品も、少子化が進む時代において「結婚後の名前」や「誰が墓を継ぐのか」といった、これまで当たり前と思われてきたことが揺らぎつつある現実をユーモラスに、そして鋭く描いていました。楽しく読みながらも、多くのことを考えさせられました。
この本を読んだからというわけではありませんが、あらためて思うのは、「選択的夫婦別姓」がなぜこれほど長く国会で議論されながらも法案として成立しないのかということです。実際、先進国で夫婦同姓を法律で義務づけているのは日本くらいだといわれています。
反対派の議員は「家族のきずながなくなる」「子どもが親と同じ姓でなければ不都合だ」「日本の戸籍制度の伝統が崩れる」などと主張していますが、どれも現実からずれているように感じます。
社会で普通に働いている女性の中には、旧姓で呼ばれたり、旧姓で仕事を続けている人が数多くいます。改姓によって生じる各種手続きの煩雑さは想像以上ですし、実際に戸惑いや不便を経験している人も多いはずです。現実問題として、改姓による「混乱」は既に社会に存在しているのです。
加えて、姓を変えるのはほとんどが女性側。私自身、結婚の際に自分の姓を変えるなんて考えもしませんでしたが、それは当時の社会通念の影響も大きいと思います。もし選択的夫婦別姓が当時から認められていたら、別姓を選んだ夫婦は少なくなかったでしょうし、私も妻がそう望むなら反対する理由はなかったと思います。
「姓が同じだから家族の絆がある」という主張についても、正直なところ納得できません。名前が同じだから絆が強まるのではなく、日々の関係性や信頼で家族は結ばれるものです。もし「同姓でないと家族は一体感を持てない」というのなら、それはむしろ形式だけに頼った“偽の絆”ではないでしょうか。
「子どもが親と姓が違うといじめられる」という指摘も耳にしますが、それも一時的な現象に過ぎないと思います。むしろ普及すれば「離婚したのか?」「片親なのか?」といった偏見を持たれることも減り、逆にいじめの理由を減らすことにつながるかもしれません。姓が違うことはいじめの“きっかけ”にすぎず、根本的な問題はもっと別のところにあるはずです。
この問題を放置することで、結婚をためらう人が増える可能性も高いでしょう。『墓じまいラプソディ』にもそうした事例が描かれていましたが、少子化対策を真剣に考えるのであれば、別姓の導入は避けて通れない課題だと思います。
そもそも「選択制」ですから、同姓を望む人はこれまで通り同姓を選べばよいのです。選択的別姓は「選べる」制度です。望む人は同姓を選べばいいだけの話で、別姓を望む人にまで「同じ姓じゃないと家族じゃない」と強要するのは、もはや時代錯誤と言わざるを得ません。
少子化や晩婚化が進む中、結婚をためらう理由のひとつが「姓の問題」であることは明らかだと思います。それでも国会は延々と議論を続けるばかりで、何十年も結論を出せない。日本社会が大きく変わっていることに気づかない議員たちの姿は、周りがみんなデジタル機器で仕事をしているのに、一人だけ紙のそろばんを弾いて“これで十分だ”と言い張っているようなものです。
令和の時代に生きる私たちは、もうアナログからデジタルへと進んでいます。なのに国会だけが「やっぱり手書きのほうが心がこもっている」と言って動かないような時代感覚に正直、あきれるやら、笑うやら――そんな気分になります。
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